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政治経済・評論

女性の権利

 

2018年5月2日、アイルランド共和国で人工妊娠中絶を禁じる憲法の撤廃を問う国民投票が行われた。結果は撤廃賛成派66%、反対派34%で、賛成票数が反対票数を大きく上回る結果となった。投票率は64%超と、歴史的にも高い数字となった。今回の投票は、アイルランド憲法に1983年に追加された第八修正条項をめぐるものである。胎児とその母親に同等の権利を認めるこの条項下、強姦による妊娠や、胎児に致命的障害がある場合も含め、ほとんどのケースでは中絶は認められてこなかった。だが国民投票の結果を受け、妊娠12週未満であれば中絶可能とする法が制定される可能性が高い。この国民投票が国際的な注目を集めたのは、主として二つの観点からである。第一に、保守的なカトリックアイルランドが近年見せつつある社会変化のさらなる印として、第二に、国民投票という直接民主制のシステムが近年各地で右派の勝利に終わってきた中での反例としての意味である。以下これら二点について見ていきたい。

 

アイルランドは15年にも同性婚を認める憲法改正をやはり国民投票で可決しており、17年にはカムアウトした同性愛者であるレオ・ヴァラッカーが首相に就任した。01年にオランダで合法化されて以来、同性婚は世界各地で次々と認可されている。その中でアイルランド憲法改正が話題になったのは、カトリック教会の影響力が強い国と知られるこの国が「国民一人一人が直接選んだ憲法改正」によって同性婚を認めたためであろう。今回はその流れが更新されるか、あるいはカトリック教会の「悪の砦」である人工妊娠中絶という問題を前に「社会的リベラル化」が歩みを止めるか、分水嶺となる投票でもあった。

 

アイルランドは中世以来カトリック信者の多い土地である。特に、20世紀前半の独立以降、植民地宗主国のイギリスと自身を差別化する意味もあり、カトリック国家として自己形成する。1937年の憲法では、国がカトリック教会に「特別な地位を認める」という文言が盛り込まれた。反植民地主義的な理想から生じたナショナリズムカトリック主義の結びつきは、厳しい性倫理と母性主義を社会に強いることにも繋がった。憲法には「女性は家庭内での活躍を通して国家に貢献する」と定められた。女性公務員は結婚と同時に退職しなければならず、銀行などでも同様の習慣が見られた。ただし、中絶禁止が憲法に明文化されたのは上述のように1983年と、それほど古いことではない。この時の国民投票では、賛成が66%と、中絶禁止派の圧倒的勝利であった。アイルランドでは60,70年代に開放経済指向、世俗化、および価値観の変容が見られていたが、80年代に入ってバックラッシュが起きたのである。72年、「カトリック教会に特別な地位を認める」との憲法条項の抹消が国民投票で可決された。翌年、アイルランドはEECに加盟し、以後多くの情報や商品が国内に流入する。また60、70年代は、世界的な影響もあり、女性の権利運動が活発化していた。当時販売が禁止されていたコンドームをイギリス領北アイルランドで大量に買い集めてくるなどラディカルな活動も見られた。これらの流れに対し、保守派カトリックは危機感を募らせ、人工妊娠中絶をプライバシー権として認める73年のアメリカ合衆国最高判決と同様の判決が国内でも出るのではないかと危惧し、中絶禁止派団体は「胎児の体が産業利用される退廃的な未来」のイメージに訴えかけ、中絶禁止を憲法に明記することを訴えていく。その結果の第八修正条項の成立であった。86年には離婚を認める条項案が国民投票によって否決される。以後、離婚合憲化も95年まで待たれなくてはならなかった。

 

中絶を禁じる法律・憲法は、中絶を無くすことはなく、単に別の場所で処置が行われるようにするだけとも言われる。83年以来、17万人の女性が中絶のためにアイルランド国外に渡ったと推測されている。中絶は完全に閉ざされた選択肢ではなかったが、貧困層の、かつ社会的サポートを受けにくい女性にはハードルの高いものであった。カトリックの文化的・社会的影響が歴史的に強い他のヨーロッパ諸国でも、中絶に対しアイルランドほど厳しい対応を取る国は少なかった。フランス、イタリアでは70年代に合法化、スペインでも85年に条件付きで合法化された。厳しい条件を設けるポーランドでも、胎児が母体外で生きられない場合や、妊娠が強姦あるいは近親相姦の結果である場合には中絶が認められている。83年以来、いくつもの痛ましい事件が中絶禁止の是非をめぐる社会的議論を湧き起こしてもきた。最近では、2012年のハラパナヴァールの死亡事件がある。ゴールウェイ市に住むインド出身の歯科医ハラパナヴァールは第一子妊娠中に病院に搬送され、流産が避けられないことがわかる。本人は中絶を希望したが、胎児の心音が確認される限り中絶処置は行えないと病院側が主張。初期段階で医師が見逃した敗血症の進行により、彼女は死亡した。この事件は中絶権利擁護派にとって象徴的意味を持つ事件となり、国民投票前にも彼女を描いたプラカードを掲げるデモが多く見られた。第八条項は母体に生命の危惧がある場合に限り中絶を認めている。ハラパナヴァールのケースは、母体の生命の危機の深刻さを医師側がしばしば読み間違える現実を一例として示したのである。こうした側面から見れば、今回の国民投票の結果は明確に、これまで女性から社会的・身体的自由を奪い、その生命まで脅かしてきた法の撤廃と見なすことができよう。

 

さて、16年のアメリカ合衆国大統領選やイギリスのEU脱退をめぐる投票など、国民投票が排外的ナショナリズムや右派の勝利に終わる結果が続く昨今、アイルランドでも保守派が勝つのではとの予測は広く見られた。事実、中絶反対派の活動にはこれら二つの「前例」を連想させる兆候もあった。たとえば中絶反対団体「第八修正条項を守る会」は、イギリスのデータ解析会社ケンブリッジアナリティカの関係者を雇用していた。同社はトランプ氏の選挙戦とイギリスの脱EU派団体のために数千万のFacebookユーザーの個人情報を利用していたとされ、大きな批判を浴びている。そして「第八修正条項を守る会」の活動には「ポスト・トゥルース」時代を体現するような、センセーショナリズムのためには多少の事実の歪曲も等閑視する戦略も見られた。たとえば赤ちゃんの顔写真の横に「彼らは妊娠6ヶ月までの中絶を合法化しようとしている」と記した広告である。実のところ法案として示されていたのは、母体に重大な健康リスクがある場合に限り妊娠二四週までの中絶を認めるもので、母親の申し出によって中絶が行いうるのは原則一二週までである。この広告は各種メディアで論争的に取り上げられた。しかし今回のアイルランドではこのような広告が大きな効果を発することはなかったかのように見える。センセーショナルな言葉やイメージは、何が起こっているのかの把握が難しく不安が蔓延している社会状態で効果を発しやすい。その意味では今回の投票では、中絶をめぐる問題の所在についての理解が、有権者の間に涵養、共有されたように思われる。

 

背景には、政府が16年に開設した熟議民主主義の機構である市民議会の存在がある。12年に開設された同性婚合憲化についても取り上げた憲法協議会の後を継ぐ議会で、性別、年齢、移住地、社会階級などを代表するようランダムに選出された99名の有権者によって構成され、中絶、高齢化、国民投票制度、気候変動など社会的重要性の高い主題について協議する。人工妊娠中絶は最初に取り上げられ、会議は5ヶ月5回にわたるミーティングを持ち、法関係者や医療関係者、および中絶権利擁護は団体と中絶反対は団体双方の説明を受け議論した。最終的に市民議会は中絶がより広いケースで認められるべきとの勧告を出し、これを受ける形で政党間で国民投票の是非が話し合われた。同性婚合憲化の時と同様、その様子はインターネットやテレビでライブ報道されていた。すなわち数多くの有権者が、ダブリン城に集まった市民議会構成員と同時並行的に、専門家の説明や関係団体のスピーチを開き、自分であればどんな判断を下すか考える機会を提供されていたのである。対して、イギリスのEU離脱をめぐる国民投票では、専門家や各立場の政治的リーダーが情報と経験を有権者に広く共有するような組織だった機会は少なかった。与党である保守党は内部分裂とイギリス独立党の台頭の危機に脅かされて直前まで混乱した状態にあった。残留派は離脱の結果起きうる経済的悪影響について説いたが、それも脱EU派が繰り返した「移民増加の脅威」との間で恐怖のイメージ合戦となり、より漠然としていたため敗北した側面がある。とはいえ、アイルランドの中絶禁止条項撤廃と比べ、EU離脱の結果として起きうる事態はずっと複雑で、複数の可能性があり、投票の結果の未来を分かりやすい、かつ根拠あるイメージで描くことがそもそも困難だったと言える。アイルランド型の熟議民主主義が幅広く有効性を持つかどうかは、慎重に捉えられるべきである。

 

ところでイギリス領土である北アイルランドでは、中絶はいまだに禁止されている。イギリスの他領域では67年に中絶が実質的に合法化され、母親が望み、また医師複数名の了承が得られれば、妊娠二四週まで中絶が行えることになっているが、成立以来この法制度から北アイルランド第一党である民主ユニオニスト党はプロテスタント系の保守強硬派の政党で、中絶反対の立場を公言しており、同性婚合法化からも北アイルランドを除外する措置をとっている。しかし中絶に関しては国連から女性の人権侵害であるとの警告が出されている。現在、イギリス他地域とアイルランドの政治家170名以上がイギリス政府に法改正を求める書類を提出したことが報道されており、今後の動向が注目されるところだ。

 

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