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政治経済・評論

戦後と今の経済の比較

 

歴史的な敗戦で幕を閉じた第二次世界大戦終戦後、日本は疲弊仕切っていた。多くの無辜の命が奪われ、建物は跡形もなく破壊され、物理的にも、また精神的にも日本の回復は鏤塵吹影だと思われた。しかしその後、日本は「奇跡の復興」を成し遂げたのである。本稿では、当時の日本の社会経済を俯瞰し、今日の社会経済と比較していくことを目的とする。

 

戦後経済については、1952年の経済白書が回復の過程を概観している。その過程 を4つの段階に分けて書いたのが下の図である。

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戦後から今日までの段階をこの4段階に集約することは一見強引な気もする。実際、 日本の経済成長の話をする際にはいつも高度経済成長期であった60年代が俎上に 載せられる。しかし、筆者自身は、日本が回復し経済成長をする上で非常に重要な のがこの4段階、とりわけ1-3段階であったような気がしてならない。4段階以降の 経済成長は非常に顕著で、55-70年の名目成長率は15.7%で、実質成長率は10% にまで成長した。一見不可能と思われた日本の成長を可能にした背景には幾つもの 要因があるように思う。一つ目は戦後日本は非常に低い生産水準に陥ったが、実は 他方に遊休施設(部分的な故障や動力不足などで稼働していなかった施設)が多くあ り、それらを補強、補修することで原材料の投入が確保されると、忽ち日本の生産 性は増加した。2つ目は、朝鮮戦争である。非常にシニカルな見地ではあるが、朝 鮮戦争の上に日本は成長を成し遂げたと言っても過言ではない。朝鮮戦争に伴った 大規模な軍拡特需は日本にとってはまさに漁夫の利であった。戦争が長期化するに つれ、軍服やテント、保存食等の供給をほぼ日本が独占する形で他国に輸出し、同 時に優れた日本の技術をアピールする機会にもなった。当時、いわゆるドッジライ ンに基づく先の見えない不況に悩まされたいた日本とっては、朝鮮戦争は天の配剤 と言うより他なかった。さてその第2の要因に付随した3つ目の要因として、日本 で行われた抜本的な制度改革も同じく重要な影響があった。制度の内容を鑑みるこ とは本稿の目的にないため割愛するが、これにより自由な競争を促進することがで き、国民所得の増加を促進し、国内市場の拡大を可能にし、結果経済成長を加速させるためのエンジンとなった。こうした背景があって終戦から10年後の1955年に は貿易を除く殆ど全ての分野で日本は戦前を上回る水準にまで回復した。「奇跡の 復興は」そのようなバックグランドがあり、のちに経験する高度経済成長の段階に 移るのである。

 

日本の高度経済成長期を俯瞰する前に経済企画庁「国民経済計算年報」を基に筆者
が段階に分けてまとめた図を見ていただきたい。

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これまでに幾度となく見る機会があった数字だが、改めて見ると「この時代に生き てみたかった」と思うミレニアル世代は私だけであろうか。当時を経験した方の話 を聞くと、それはそれは紛華奢靡な時代であったのだそうだ。この顕著な経済成長 の原動力となったのは一体何であったのだろうか。この時期から「投資が投資を呼 ぶ」というフレーズを耳にする機会が増える。別言すれば、お金があった日本の民 間企業は積極的に設備投資をしたのだ。設備投資が増大すると機械工業が発展した。 機械工業の発展が素材部門の発展を促した。それによりいくつもの大型高炉が短期 間に建設された。生産の増大に伴い電力需要を増大することが必要になる。そこで 大型火力発電所の建設が増設された。指数関数的に増加する国民の所得水準、国民 の消費需要を急増させた。そしてさらに次の投資に繋がった。当時の経済成長のサ イクルを書くと、やや単調過ぎるが、このようなサイクルの基経済が循環し、当時 の国民は華やかな生活を送っていたのである。

 

しかし、永遠に続くと思われた成長も、成長の水面下で進んでいた逆流する波に螻 蟻潰堤してゆく。一つ目の高波は大国アメリカの経済低迷である。戦後の世界秩序 は政治的には大国アメリカを中心としてパワーオブバランスの均衡が保たれていた。 そのアメリカが経済低迷に陥ったことで、世界秩序が乱れ始めた。とりわけ、取り 返しのつかない敗北に着地したベトナム戦争が、その後アメリカの信頼性を欠く決 定的な要因になった。長引く泥沼化した戦争、戦争の激化が莫大的にアメリカの防 衛費を逼迫させ、結果、失ったものは多く得たものは何もない戦争になってしまった。これにより日本もこれまで積極的であった投資に退嬰的になったと言える。ま た2つ目の要因として、71年には金・ドル交換の停止や輸入課徴金の実施等の一 連の経済対策がアメリカ政府によって実現され、これが引き金となって世界は変動 相場制に移行することとなった。日本の企業はこれまでの固定相場制のもと、正確 な未来への視座があり、投資には積極的であった。安定した固定相場制への信頼が 非常に強かった日本は、一方的な変動相場制への移行により民間企業を中心に不安 の声は広がった。余談ではあるが実は変動相場制は71年の12月に開かれた蔵相会 議により、一時期固定相場制が復活した(スミソニアン合意)。しかし、すぐさま変 動相場制に戻り今日に至るのである。その後、日本の経済成長は本格的に停滞して ゆく。その停滞の内容については紙幅の制約により書くことはできないが、終戦か ら今日に至るまでに日本が経験した経済成長とその後の鈍化の過程は非常に簡潔で はあるがここまでで振り返った。残りの紙幅は今日の社会経済との比較に割くが、 前半部分である「終戦後の社会経済」を振り返り書いていく作業が筆者自身非常に 楽しく感じ、ややスペースをとってしまった。従って今日の社会経済については簡 潔に触れるのみで比較に移っていきたいと思う。

 

今日の社会経済は一体どのようなものであろうか。私は「飽和」が一つのキーワー ドであるように思う。つまり、戦後の経済成長のように成長の余地が無限にあった 社会はある一定レベルまですでに飽和し、これからは限られた範囲で様々な制約や 条件の基、経済成長を考えていかなければならないということである。むしろ極端 ではあるが、我々にできるのは成長ではなく、鈍化する経済のスピードをどれくら い遅らせることができるか、ということではないだろうか。今日の問題は「指数関 数的に増大する債務と鈍化する経済成長の齟齬」である。経済成長の限界は、地球 の有限性とエントロピーの増大という物理の法則の直接的帰結なので防ぎようがな いのだ。またこれまで頼ってきたエネルギーも、資源は生産性の高いものから使用 されるため、指数関数的に生産効率が低下してゆく。日本人の中ではまだ、「我々 はもう一度高度経済成長期のような成長ができる」と考えている人も多いが、今と 当時とでは社会的背景がまるで異なる。最近ではAIやlolのようなITで経済成長を図 ろうという声や活動も増えてきた。またベーシックインカムで働かなくても暮らせ る社会が実現できると考えている人もいる。しかしそのような社会は実現しないと いうのが筆者の考えである。なぜなら、情報はエネルギーではないからで、AIやlol には物理的な限界を超えることができないからである。前途でも述べたが、これか らは化石燃料資源の枯渇と地球規模での環境破壊が続くため、AIを活用したところ で経済は縮小していき、自然災害などで社会インフラの維持が難しくなっていく。 しかしながら、「シェアリングエコノミー」や「サーキュラーエコノミー」などは 希望に満ちていると思う。要は、物理的な経済規模は増やさないが、限られた資源を有効活用するような社会経済である。戦後我々は大量にエネルギーを消費し悪戯に規模の経済を大きくしてきた。しかしこれからは限りなく使用するエネルギーを削減し質の経済を向上させていく必要がある。そのような社会を実現させるためには、我々一人一人がこれまで地球に負担を強いた過去から反省し、痛みを分かち合う社会へと変えていくことが求められるだろう。

UNESCOインターン/skype面接

 

10/19日、日本時間の午前11:00から20分ほどUNESCO(国連教育科学文化機関)のインターンシップSkype面接がありました。以下に受けた質問と答えた内容を書きたいと思います。

 

面接官は一人。Skype面接といえどかなりきちんとしていた印象です。初めに面接官の自己紹介と質問の趣旨をお伝えいただき質問に入りました。面接は英語です。

 

Q1-1現在所属している研究機関やこれまでのインターンの経歴を含め簡単な自己紹介をお願いします。

 

A. 私は現在◯◯大学の◯◯大学院に所属しており、学士は経済、修士は開発学ですが、所属する研究機関ではとりわけ教育開発の勉強をしています。インターンシップはこれまで二度行いました。一度目はアフリカのジンバブエにあるユネスコで三ヶ月インターンをしました。当時は今みたいにSDGsが周知されておらず、SDGsの内容と重要性を民間や教育機関に啓発する活動を行なっていました。また独自でアンケート作成し各省庁に回答を依頼し、集めたデータを基に提案書を作成しました。ユネスコの勤務内容や理想の職員像などを内側から知れる機会があり貴重な三ヶ月でした。それが学部三回生の時でした。

 

二度目のインターンインドネシアの国際NGOで二ヶ月行いました。ユネスコインターンをしている際、現場を知る必要性を痛感しました。現地のNGOでは同じく教育セクターにて統計分析を行いつつユニセフとのパイプ役として働いていました。当時働く上で学んだインドネシア語は今でも継続して学んでいるので、インドネシアで働けるのは言語的にも自分にはアドバンテージがあると感じます。また現場での実地経験や温度感を知れたことは非常に大きな学びとなりました。

 

Q1-2  ユネスコで働いていた時のアドバイザーは誰でしたか?

 

A ◯◯さんです。

 

Q1-3 統計が出来ると言いましたが具体的な内容を教えてください。

 

A 統計は分析含め一通りは学びました。自分の強みとしてはstataを使えることだと思います。大学院の授業でも使っているソフトなので働く上で武器になると考えています。

 

Q1-4 インドネシア語はどの程度理解できますか?また他にも理解できる言語があれば教えてください。

 

A インドネシアインターンをしていた時、主な業務は基本インドネシア語で遂行していました。また一時期スペイン語の通訳もしていてスペイン語もわかり、学部時代での言語専攻が中国語であったため中国語もある程度理解はできます。

 

Q2 あなたは教育セクターでのインターンを希望していますが、もし希望に添えなかった場合、当事務所にある他のセクターで働く意思はありますか?

 

A もちろん希望していて、何より自分が即戦力として働けるのは教育セクターです。しかし希望が届かない際は、そちらにあるhuman rightにも関心があるので、そちらでの勤務を希望します。

 

Q2-2 なぜhuman rightに関心がありますか?

 

A 私はジェンダーやエンパワーメントに関心があります。学部時代、個人で置屋や児童婚の調査をしており、その時からhuman rightに関心がありました。所属する研究機関でも人権学を専門的に研究する研究生が多いので頻繁に意見交換をしています。

 

Q3 あなたは以前にユネスコインターンをされていたので、改めて聞くまでもないですが、ユネスコの活動と言われて一番に頭に浮かぶ活動はどういったものでしょうか?

 

Q3-1 SDGsです。

 

Q3-2 SDGsを簡単に説明していただけますか?またMDGsとの違いについてもお答えください。

 

A 模範解答

 

Q4-1

今回インターンとして採用された場合、いつくらいからの勤務を希望でしょうか?

 

A 一月中旬くらいから四月まで、延長できて五月まで活動ができればと考えています。ちょうどその頃だと大学院も春休みに入り、ユネスコインターンをすると所属する機関に伝えれば、ある程度の融通は聞いていただけると思います。

 

Q4-2 ユネスコインターンは最低三ヶ月なのでその点に関しては問題ありませんね。これもご存知だとは思いますが、インターンをするにあたりユネスコから物理的なサポートがないことは了承済みでしょうか?

 

A はい。了承しています。上手くいけばいくつか申請している機関から奨学金をいただけると思います。仮に全て自己負担でも貴重な機会なので働かせていただきます。

 

Q-5-1逆に私たちに質問はありますか?

 

A今現状で何名のインターンがいますか?また働くとなった際の主な業務内容を教えてください。

 

R ジャカルタのオフィスでは現在4名のインターンが異なる国から来ています。あなたが教育セクターで働く際には、上司のアシスタントやホームページの更新、企画書の作成、場合によっては統計分析もしていただきたいです。

 

A かしこまりました。

 

Q6  今回の面接を通して、貴方の英語力を知ることができました。しかし筆記力は測ることができなかったので、この後メールで英語で書かれたパブリケーションを送っていただけますか?

 

A すみません。自分が英語で書いたパブリケーションはありません。私の大学院では講義が全て英語なので、前セメスターで提出した教育に関する期末レポートを送らせていただくというかたちでもよろしいでしょうか?

 

R それでも可能です。お待ちしております。では本日はどうもありがとうございました。

 

結果は一週間以内に来るみたいです

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